エレキとダンスホール

それは東京オリンピックも終り、世の中ある意味ではしっとりとしていた時代ではなかったか・・・
 僕の生まれ育った街、ここ高崎もそうした静けさの中にあったような気がしていた。

まだ、北関東の奥まったこの地方都市にはベンチャーズもビートルズもそうはなかったし、もちろん「テケテケテケ」も。
 僕らもその時代、世代の動物的感、嗅覚かロックンロールのエルビス・プレスリーやら、アメグラのポール・アンカ、二―ル・セダカ、デル・シャノン、そしてイギリスのクリフリチャード辺りを聴いてワクワクしていた頃だった。

もっとも、テレビでは「ザ・ヒットパレード」で飯田久彦、尾藤イサオ、内田裕也などが日本語に翻訳されたロックンロールを歌い、そのバックバンドが「寺内タケシとブルージーンズ」であったり、「ブルーコメッツ」であったりしていた頃だった。

今でも鮮明に憶えているのは、東京渋谷に住んでいた従兄の連れられて行った新宿南口、甲州街道沿いの、丁度、明治通りとの角にあった「新宿アシベ」。そこで聴いたと言うか観たというか、「尾藤イサオ」の「悲しき願い」、ゲーリー・バートン、アニマルズのやつだ。
 確か昭和四〇年、バックバンドが「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」だった。

内田裕也、フランツ・フリーデル、ミッキーカーチス弘田ミエコ、中尾ミエ・・・それらの歌手のバックバンドがその後の「田辺昭知とスパイダーズ」であったり、「伊藤敏道とリリオリズムエアーズ」であったのではなかったかと思う。
 とにかくその当時はいわゆる「ロックバンド」の時代ではなく「ロック歌手」全盛の時代だった。
「新宿アシベ」に「池袋ドラム」はよく、その従兄に連れて行ってもらった。

そうだ、新宿駅西口にあった、名前は忘れたが「ボーリング場」。それもその頃初めてボーリングと言うものをやった覚えがある。

「ダンスホール」

当時高崎には「みゆき」そして「社交」、それにあとひとつあったようだが僕の記憶の中にはその「あとひとつ」はない。

僕は高校に上がると、エレキに夢中になってしまった。もちろん「新宿アシベ」の影響やテレビの影響もあったに違いない。しかし僕はその歌、歌手よりも「バックバンド」に夢中になっていた。

その頃からどうも僕は、僕の家からは徒歩一〇分くらいの所、嘉多町の「サカイレコード」で怪しいサウンドがけたたましく流れているのが気になりだしたのだった。
 店内を覗くと今まで見た事もないようなギターが天井から後光を射しながら吊る下がっているではないか。
 平べったい板に鉄の弦の張ってある、しかも真ん中に何のためかは知らないが長方形の光ったやつがついていて、それにラジオの摘みのようなものもくっ付いて、電気を付けたり消したりする時のスイッチがついている。

どうやらそれが、「エレキギター」だったのだ。テレビで見るそれで知ってはいたものの、クレージーキャッツの植木等が弾く分厚いギターとは大分趣を異にしている。
 サカイレコードの店内にはなにやらそんなギターを抱えたアメリカ人らしいバンドのポスターが貼ってあった。

アストロノウツ「太陽の彼方へ」と書いてあるそのポスター。

「テケテケテケ――――ッ」

 あの時の衝撃は今でも忘れずに焼きついている。あの音、そして臭いと言うかあの時の空気・・・
 僕は居ても立っても居られない、欲しくて欲しくて堪らない。もう頭の中はその「エレキ・ギター」でいっぱいになってしまっていた。

僕は思わず店員のお兄さんに聞いてみた。

「あれはエレキ・ギターって言うんだ」

なんかいつもはダサイお兄さんなのにその時ばっかりはとっても「エライ」人のように見えたから不思議だ。

「このギターはこれだけじゃ音がでないんだぞっ」

得意そうにお兄さんは僕を覗き込むようにそう言った。

「これはエレキ。要するに、電気で音を出すギターなんだからアンプって言うのが絶対必要なんだ」

〈電気ギター・・・なんだそれ〉僕は思わず胸の中で呟いていた。

そのお兄さん〈ふん〉っといった素振で僕を無視するとその電気ギターを丁寧に磨き始めた。

店の中では「テケテケテケ―――ッ」があっちへ行ったり、こっちは行ったり。

その電気ギター「エレキ」値札には一万二千円と無情にも書かれていた。

なんでも糸巻きの部分に「G」と大きく書かれていた。

〈一万二千円か・・・アルバイト四ヵ月分だなか〉

家に帰ってテレビのスイッチを入れてみた。やっぱり「テケテケテケ―――ッ」と、やっているではないか。
 寝ても覚めても「テケテケテケ―――ッ」どうしても欲しくて、欲しくてたまらなくなってきてしまった僕だった。

しかしサカイレコードのそれは「メーカー品」ばっかりで、ビクター、ナショナル、グヤトーン、テスコなんて云う高級品しか置いてない。
 値札には、2万円前後が何れも付けられている。これでは、手も足も出ない。

そこで、月賦屋だったが「三和デパート」と云うのが羅漢町にあって、そこには多分、今にして思えば輸出用の品モンだったんだろうけど7千円台のがあった。

早速、牛乳配達のアルバイト、親父もお袋も兎に角絶対反対だったが、こっちは欲しくて居ても立っても居られない。一ヶ月3千円のアルバイトだったか。
 夜は、学校帰りに「音楽センター」で掃除のアルバイト、一回百円。なにせ、ラーメンが60円くらいの時代だから今なら、千円だろうか。

ようやく手に入れたエレキギター。アンプはラジオを改造して作った。兎に角あの「テケテケテケ」が不思議でしょうがなかったし、「ウウ〜〜〜ン」と云うトレモロアーム。これも僕のには付いていなかったから全くの謎であった。

そうこうしていたある日何処で聞いたのか、マックスのバンドがエレキを弾けるやつをと云うことで人づてに僕の所に十歳も年上の「水野さん」と云う人が誘いに来た。
 マックスのバンドは元々「ハワイアン」。
 ダンスホールの方でどうしても「アストロノウツ」か「ベンチャーズ」をやれということだったらしい。

 もちろん「ダンスホール」なんて云うところは大人の世界か、不良の世界。学校にでもばれれば一発で停学の憂き目の時代だった。
 そこで、当時、「太陽の彼方へ」とか「アパッチ」とか「ダイアモンドヘッド」を弾ける高校生が居ると云うので僕の所へ来たらしい。

「社交ダンスホール」。もう連日超満員で土日は芋の子を洗うよう。二十歳前後のお兄さんお姉さんが殆ど。その時僕は初めて「ヤクザ」(チンピラ)と云う存在を知った。

所謂、「用心棒」って言うやつだ。

それにしても世代世代で夫々それなりの時代があるものだ。
 高商の番長主催のクリスマスパーティーとか、上越線「総番」主催のパーティーとか、高崎の「裏番」主催のパーティーとか、そんな怖いお兄さんが今では好いお爺ちゃん振りを見せているのに出くわす事が在るから可笑しい。

僕のエレキ人生の始まりだ。まさか五十の齢をエレキで食っているとはその時は想像もしなかった。


  

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