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エレキ一代記
「シェクターの始まり」
それは昭和六〇年、今から二〇年前の夏も終わりかけようとしていた頃だった。
僕はいつものように香港へ行くためにお茶の水のミッションズ・トランスポート旅行社にチケットを買うために電話を入れた。
「ジョーイチ・・・ジョーイチナライマニホンニィカエッテキテマァス」
と、完璧な英語訛りで珍しく親父さんが電話口に出た。
僕が聞くまでもなく挨拶をすると間髪入れずに親父さんの方からジョーが日本に帰ってきていることを僕に教えてくれた。
親父さん、そのミッションズ・トランスポート旅行社の社長さんなのである。
「へーーーっ、驚いたな。ジョー帰ってきてるんですか。会いたいなーーー、それでいつ戻るんですかLAには」
「ソーネェ・・・シバラクハニホンニイルミタイナノネ。ニホンデビジネススルイッテマシタカラ、ジョーイチ。ワタナベクン、イツホンコンカラカエリマスカ・・・カエッタラワタシノカイシャニキナサイ。ジョーイチニハツタエテオキマスネ。ソウソウ、ジョーイチノデンワバンゴウ、オフィスノネ・・・」
親父さんはそう言うとジョーのオフィスの電話番号を僕に伝えた。
そうか・・・帰ってるのかジョーのやつ。
そう言えば去年、しばらくぶりにジョーから電話があった。
「グリーンカード取って、今はハリウッドでリペアショップやってるんだ。こんどユーも来いよ」
と、言っていた。
なんでも日本のムーンとか言うギターメーカーから若い職人呼び寄せそこそこ上手くやっているとか。
その頃の僕は僕で、当時は二ヵ月に一度のペースで香港に楽器の買付けに行っていたのでLAまではいく余裕がなかった。
「うん。時間が出来たら行ってみるよ」
そう、僕は生返事をしていた。
ジョーの両親は中国人。中国人とは言ってもほとんどの日常会話は北京語と英語でしているとか言っていた。
だからジョーもジョーのファミリーも日本語を話す場合は「英語訛り」でその、ミッションズ・トランスポート旅行社も会話は英語。もちろん客はほとんど欧米人だった。
詳しいことは知らないがジョーの親父さん中国政府のかなりのレベルのファミリーで、ちょうど文化大革命の頃は台湾で航空会社の役員だったとかジョーが昔言っていた。
ジョーには確か2歳年上の双子の姉がいた。その頃中国本土に住んでいたお母さんはその双子の姉とお腹にいたジョーを連れて日本へ来たのだとか言っていた。
もともとが華僑財閥ファミリーらしく東京で育ったジョーは子どもの頃、東京タワーが作られるのを見ながら港区辺りの高級アパートに住んでいたといっていた。
小学校、中学、高校は調布のアメリカンスクールでその頃からバンドをやっていたらしい。
なんでも、あのブリジストン財閥一系の御曹司たちとグループを組んでいたとかいっていた。
後々に知ることになるのだが、僕ら「どこの馬の骨」とは別世界の住人であったことは間違いない。
なにせその頃の彼の親父さんたちの住まいときたらあの広尾マンションで、いわゆる世に聞く「億ション」と言うやつだった。
「昨日ジャイアンツのクロマティと一緒に泳いだよ・・・・ユー今度来いよ」
「クロマティって、あのジャイアンツの?」
「そうだよ。彼、ドラム上手いんだぜ・・・今度クロマティの息子にシェクタープレゼントする約束してるんだ」
そんな別世界の住人だったジョーと僕はひょんなことで知り合って昭和四七年以来、青春といえるかどうかはわからないが紆余曲折の時代をともにすごした。
そしてそれが僕の「シェクター」の始まりだった。
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