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ESP
「ジョー、どうする、このままじゃあシェクター続けられないぜ」
「そうだな…じゃあ最後の手段を使うか」
ジョーは思いつめた堰を切るように言い出した。
「ナベ、ESPの渋谷さんにシェクターを買ってもらおう、シェクターのブランドを」
「アメリカでもフェンダーと勝負できるのは今となっては渋谷さんしかいねんだ」
僕は話には聞いていたが、業界伝説の人物、ESPの「渋谷尚武社長」その人だ。
もちろん日本国内において、シェクターの商標登録は渋谷社長がしている。
それに、今では「ムーン」に別れてしまったが日本に初めてシェクターをエンドースしたのも「渋谷社長」だった。
その渋谷社長、シェクターへの資金援助はアメリカ本国のシェクターを含めての商標権、営業権の譲渡が前提なんだとジョーは言っていた。
その頃、ESPは、日本でのヘビーメタルロックバンド、ラウドネス「高崎晃」をモニターにした「ESPランダムスター」で一躍く名を馳せ、ダンカン、フロイドローズの総代理権も持ち、卸中心ではあったが、神田錦町、渋谷道玄坂に「ESPショップ」を持ち業界筋では有名な傑人であった。
「ナベ、渋谷さんに頼んでくるよ。ノーって言われたらお終いだけどな」
と、ジョーは意を決したように言った。
要するに資金援助、或いは買収の申し込みだ。
その年の一〇月、渋谷区東に移転して間もない頃の事だった。
「ナベ、渋谷さんがESPの社員旅行に参加しろって言って来た。俺行ってくるよ、佐渡島へ」
佐渡島は渋谷社長の故郷でもあり、ESPの生産工場もあった。ESPの生産工場は佐渡島の他に、長野県の木曽福島、そして、東京豊島区に木工、塗装、組立の一貫生産工場を持っていた。
なんでもその年は、佐渡島で社員旅行をするから、
「ジョー、お前も来い」
と、渋谷社長の厳命だったようだ。
結局、その翌年の3月「シェクターコーポレーション株式会社」は設立された。
代表取締役、由比城一、専務取締役、渡辺一。そして社員は営業の手島史貴、それから、ESPからの出向、荒木貢、経理に小林健治とでスタート。
そして同時に事務所兼工房も渋谷区東から、今までの3倍ほどの広さの荒川区西尾久に移転した。
まずの営業拠点はシェクターコーポレーションとしては、都内のみ。後はESPの営業に委託。在庫は全て神田、渋谷の店、それと営業に買取ってもらった。さらに、半年間は無条件で400万円の仕入れを起こすと云う条件で、新生「シェクター」はスタートした。
その後やはり「トム・アンダーソン」の企画で「クルーソンタイプ」の「段差付きぺグ」を、群馬県伊勢崎の「後藤ガット」にOEMした。
これはテンションピンを使うことなくナチュラルテンションが得られ、さらにテンションピンによるチューニングの狂いを少なくする為にと云う事で、糸巻き部分のポストに「段差」をつけると云うアイディア製品。
さらに、「トレムロック」と云う「ファインチューニング式」のブリッジ。
アメリカ向けの製品は全て、この仕様にボディ、ネックとも設計した。後で分かったことだが、チューニングマシーンは好評だったが、「トレムロック」は、外してしまったようだ。日本国内でもさっぱりだった。
プロモーションには当時、評判の高かったパラシュートの「松原正樹」さんにモニターをお願いしたが、売行きはさっぱりだった。結局は国内在庫は全部アメリカに送り、ダイキャストの金型もアメリカに送った。
楽器店の反応としては「シェクター」らしくない…
「やはり、シェクターはトラッドでないと」が趨勢の意見だった。
1984年、「シェクター」らしさの追求に明け暮れる僕の「エレキ人生」が始まった年だ。
「シェクター」が「シェクター」でありつづける為の木材管理と職人さんとの交渉。
1996年にその「青春時代」も閉じる訳だが、僕の一生で一番忘れられない「時間」が其処にあった。
様々な、いろんな所で助けていただいた諸先輩に感謝の意を捧げつつ認めている。
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