雲助バンド

 

お末ちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
 池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、「東京トヨペット」池袋営業所の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだっただろうか。僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」愛の巣は青春の物語がぷんぷんしていた。

何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった。スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学するために東京へ行くことになっていたらしい。
 その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせて、お末ちゃんもミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていたようであった。

まさに「神田川」・・・かぐや姫じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。と言うのも、今、二人は共に、五〇と五四。そして一姫二太郎の幸せな家庭を築いている。

「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、そして「東京デザイナー学院」とか・・・全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
 なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人。バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、その頃高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。

丁度その頃のミュージックシーンは、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
 と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代も、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機に、ジミー・ヘンドリンクス、ザ・バンド、オールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。

もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。

「ナベさん・・・これ聴かなくちゃ、これ」

そう言ってお末ちゃん、御茶ノ水のディスクユニオンとかで買い集めた「マディー・ウオーターズ」、「BBキング」、そしてさらに渋めの「T・ボーン」とかを、何度も何度も僕に聴かせた。
 既にダンスホールも下火になっていて。僕らがいつも出演していた「みゆきダンスホール」もその頃は客もまばらだった。もっとも、ブルースじゃあ踊れない・・・

「堀さん・・・もっと踊れる曲やってくんなくちゃあ」

 みゆきのママもその時代の移ろいを感じながらもバンマスの「堀さん」こと、お末ちゃんの兄貴のベーシスト、清美ちゃんにこぼすように言うのだった。

 お末ちゃんたちは先に東京でバンド活動をしていた「オトヤ」と「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシスト「丸山さん」、そして彼、丸山さんが連れてきた、「キサブローさん」に、未だ当時は無名だった「なぎら健壱と缶けり仲間」と云うばんどに参加していた「志保くん」と「雲助バンド」と云う変な名前のブルースバンドを組んで、新宿、荻窪、高円寺など、中央線沿線でライブ活動をしていたのだった。
 新宿ロフト、マガジン1/2、西荻窪のロフトとかでブルースをやっていた。

「マガジン1/2」ではブルースバンドとしては当時新進気鋭の「ウエストロードブルースバンド」との対バンもこなしていた。

「ウエストブルースバンド」。
 それは、今ではその筋では多くのファンを持つ、国内トップブルースギタリストの「塩次伸次」さん、そしてボーカルの「ホトケ」さん、ついでと云っては失礼だが山岸さんは未だ学生で店の中を飛び回っていた。
 それになんと云っても光っていたのがリズム隊の松本さんと小堀さん、それにブルースハープの第一人者妹尾さんの豪華メンバーだった。

 雲助バンドは新宿の「御苑スタジオ」で練習をしていた。リーダーはギターボーカルのキサブロー。「雲助バンド」はキサブロー作詞作曲の日本語オリジナルのブルースしかやらなかった。

「参っちゃうんだよな、日本語でブルースだよ」

 と、お末ちゃん。お末ちゃんは高崎にいる頃からジョンメイオール、ピーターグリーン、マディーウォーターなんかに嵌っていたから今一、その「日本語オリジナルブルース」に乗り切れない様子だった。

 お末ちゃんはグレコのレスポールモデル、キサブローは確か「SG」。本物のギブソンだったかグレコだったかは記憶に無いが。

 ボーカルの志保君は何でも北陸の方の出身でヒョロットした、コミカルな未だ少年ぽさの残る愉快な奴だった。なんでも「商船高校」、船乗りの学校を出ていたと云うが「海の男」の匂いは感じさせなかった。ただ、声は「海」で鍛えたかのようなハスキーでブルースにはうってつけの声をしていた。
 ひょうきんで「MC」もかなりいけていて、後で気がついたのだが「なぎらけん壱と缶けり仲間」だったのも頷けた。

 丸山さんは、東武東上線の上板橋に住んでいた。何度か訪ねた事があるが今風に云えば、フリーター兼バンドマンでどことなく人の良さそうな都会っ子風の青年であった。
 赤穂浪士討入りのようなヘアースタイルで、たしかホンモンの「フェンダープレシジョンベースを弾いていた。当時は「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシストとして中央線沿線では幅を利かせていたようだ。
 荻窪、新宿の「ロフト」、「マガジン」と丸山さんの関係のブッキングだとか。

 キサブローさんは青森、弘前の出身。歌舞伎町のコマ劇場裏のレコーディングスタジオでバイトをしていた。同郷の彼女と同棲していた。彼女は何でもコマ劇場の裏手の「ミルクスタンド」でバイトをしていて僕もお末ちゃんも何度か牛乳などをそこで飲んだ事がある。とても愛想のいい「りんごちゃん」だったかな。
 何かの都合でオトヤが高崎に帰ってしまったのでその「雲助バンド」を僕が手伝う事になった。

弘前「凱旋コンサート」

 キサブローさんが故郷の弘前でコンサートをするのだと云う。メンバー全員で弘前まで行く事になった。

 上野発の夜行列車「いなほ」。
 東北本線を途中から奥羽本線に行くやつだ。上野の18番線で待ち合わせた。弘前までは一二時間くらいかかっただろうか、兎に角結構な時間を列車に揺られた。

 弘前に着くとキサブローさんの友人達が出迎えていた。キサブローさんはその友達たちと懐かしそうに話し込んでいる。彼女の方はやはり出迎えた友人と「じゃぁ」と言って僕等と別れた。

 早速キサブローの友人が用意してくれた車に乗って「弘前市民会館」に向かった。コンサート会場の弘前市民会館は弘前城祉の公園の中にあった。
 弘前市民会館では既に仕込みが忙しそうに立ち上がっていた。「雲助バンド」の前に何バンドかが演奏した。雲助バンドとしては初めての大ホール。志保君がステージ所狭しと撥ねるように歌う。

「せんと〜〜〜で」

 キサブロー作詞作曲の「銭湯ブルース」。志保君がひょろひょろな身体をくねらせるようにして歌う。キサブローさんのSGと丸山さんのプレシジョンが絡む。お末ちゃんはリフ専門に徹しシャイなステージプレイ。

打上げは弘前の「りんご市場」から右方向の大通り、堀川沿いの「ロック喫茶」。斜前にはカワイ楽器弘前店があった。

 しかしなんと云うのか、人間の運命とは実に「面白いものである」と感じた…こんな僕であったもである。
 実はその後の僕の人生でのことだが、そもそもそう云ったきっかけで今日も音楽の端くれで生活をしているのだが、34の時から「シェクター・ギター・リサーチ」と云うギターメーカーの仕事をはじめていた。何の事はない、後で知ることだが「シェクター」の仕事を日本で立ち上げた「由比城一」、ジョーがこの物語のタイトルに大きく関わっているのだからだ。

 まあ、それはそれとして追々書く事にして、その弘前「ロック喫茶「R」。僕がシェクターの営業で青森、弘前と回る途中、大凡20年前の記憶が蘇ったのだった。
 たしかそのロック喫茶「R」のあった所。そう、当然「あった所」と云うからにはその昭和63年頃には既に「R」は無かったのだが、その「R」の後が、LMショップ「タクト」。
 小西さんと云う方が経営していた。あまりその店とは取引は無かったが、どうも懐かしくて時折、「弘前」には旅の宿をとった。

 もちろんもうひとつの楽しみ、津軽三味線のライブハウス「山唄」を堪能する為もあったが。しかしその都度そのロック喫茶「R」の話を当地の肩に尋ねても、残念だが詳細は不明であった。

 しかし、その「タクト」楽器店の間口と外観は当時を偲ばせるのに充分なものが感じられた―――なんて格好のいいことを言っても昭和47年たったの一度行ったきりなので、それは僕のたんなる思い込みの激しさからかも知れないので記憶の真贋に、情けない話だがいささか自信が無い。

 弘前での宿泊はキサブローさんの友人の「成田さん」の家。林檎園を大きくやっている家だった。夜中に抜け出してりんごを盗みに行ったような憶えがある〈すみませんでした〉。

「雲助バンド」、キサブロー凱旋コンサートもそれなりに弘前では受けたようだったが「雲助バンド」はその後の「中野公会堂」のコンサートを最後に解散と云う事になったようだ。〈なったようだと云うのは〉どうもお末ちゃんも「日本語」のブルースに抵抗があったらしく、練習やら本番の話があってもあのお末ちゃんの性格上煮え切らない態度というか、はっきりしない態度で断りつづけていたようだ。

「なべさん、雲助、辞めようと思うんだ」

 と、ぽつんともらした。

 正直、あの頃どっぷりと「黒人ブルース」にのめり込んで行ったお末ちゃん。かと云ってブルースバンドとは云ってもブルースバンドそのものが「マイナー」な存在でようやく関西から「ウエストブルースバンド」が注目されてきた頃。
 東京では、「竹田和夫とクリエイション」とか、「柳ジョージ」の「パワーハウス」とか、どちらかと云うと「白人系」のブルースで学園祭なんかでも受けていた。
 そう云えば、東大本郷キャンパスの学園祭でも「雲助バンド」として出たことがあった。もちろん「クリエイション」、「頭脳警察」、「カルメン・マキ&OZ」なんて云うバンドが群を抜いていた。
 70年代のハードロックが全盛を迎える頃だ。「GFR」やら、「DP」等々。まあ、黒人ブルースは今風に言えば「オタク系」。別に今風も無く、今でも「オタク」なんだろうが(笑)。

 しかし、お末ちゃん。あのころ新宿の帝都無線でバイトをしていた丸山さんを介してフェンダーのストラトキャスターとツインリバーブを買ったばかりでやる気満々だったのに…だが相変わらずの、末っ子の性質で我侭。やはり気が向かないとなったらすっぱりと「雲助バンド」を辞めてしまった。


  

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