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モーリス

 

 モリダイラ楽器の一階は倉庫。その西側に踊り場のある階段があり二階が本社営業部。三階が経理部とその奥が社長、会長室となっていた。

時代を反映している。一階の倉庫では、今年入社したばかりの社員が荷造り梱包に精を出している。倉庫の管理は中堅の平井さんが、問屋街のそれらしく愛想よく客を捌いていた。時代を反映していると言うのはその「モリダイラ楽器」社員の平均年齢は三〇前後。後日、シェクターを担当してくれることになった課長の、大谷さんも僕よりは三つ歳下の三四才。確りと大店の番頭の趣をしていた。

「どうも、会長。楽器フェアありがとうございました」

 と言うとジョーはお辞儀をするでもなく大袈裟なジェスチャーで握手をした。

 この年の科学技術館での「楽器フェア」、ジョーが何とか頼み込んで「モリダイラ楽器」のブースの隅っこにシェクターを置かせてもらったのだった。

 会長はずんぐりとした体躯をもてあますようにジョーと僕をじろっと見た。
 僕は楽器フェアで一度挨拶していたのだがジョーはそれを知らなかったのか・・・・

「会長、うちの渡辺です」

 と、僕に名刺を出すように促した。

 会長は〈知ってるよ〉と言った感じで一瞥するように・・・・・

「いいよ、いいよこっち、こいや」

 と、会長室の重そうなドアを油切れの音をさせながら僕等を促した。

「どうだ・・・・・」

 座れっ、と合図するように目で言うと会長はどかっと腰を下し、重厚そうな総革張りのソファーに沈んだ。

「どうだ・・・・・由比君」

 会長はジョーのことをそう呼んだ。

「あっ、はい。おかげさまで」

 と、丁寧に頭を下げながら言った。

 実はジョーはこの業界の主だった重鎮には得体の知れない「若者」と思われつつも昭和五〇年代の頃から結構「コンビニ」な存在だったようで、そうとうなお歴々も「由比君、由比さん」と言って一目置いていたのだった。

 と言うのも、この楽器業界七〇年代はエレキブームも去り、フォークブームの終焉すると同時にヤマハの「DX―7」の登場で一気に業界の様相も変化し始めていた時だったのだ。そんなおり、一〇年ほど前にアメリカの楽器メーカーとのコンタクトにいろいろと手伝いをしたジョーに世話になっていたからだった。
 ピックアップメーカーの「ディマジオ、ダンカン」、アンプメーカーの「メッサブギ」、ギター弦の「GHS、ダダリオ」、電子ドラムの「シモンズ」とかをアメリカで年に夏冬2回開催される、全米楽器ショー、通称「NAMM」をジョーが日本の楽器問屋をエスコートしていた。

「どうだ由比君。ためしにシェクター、しばらく俺んとこでやってみねえか」

「ワォーッ、グーッド」

 ジョーにしてみればけして大袈裟ではないのだろうが、兎に角あの、外人のポーズ。会長もやや呆れ顔で困ったような苦笑いを浮かべていた。

「で、会長――、条件は」

「由比君は話がはえぇな。ガァハー」

 と、笑って言った。

「そうか、条件か。いいよ由比君所の在庫。一千万の枠で買ってやるよ」

「イッ、イッ、一千万ですか。グレイト、グレイト。ワォーッ」

 ジョーは立上らんばかりにして喜んだ。

〈一千万・・・そんなに在庫ないけどな〉

 僕は不安になった。

 モリダイラの会長も上機嫌であった。恐らく営業の「タマ」もなかったんだろう、その時分の業界は丁度谷間、これと言ってなにが売れるとか言う時ではなかった。とりあえずモリダイラ楽器の営業力でお得意の楽器店に押込む算段だったようだ。

「オーイ、大谷呼べや」

 会長はテーブルの上の受話器をつかむと言った。

「失礼します」

 と、その大谷さんとか言うなかなか精悍な感じのビジネスマン風、ずいぶんと畏まって入ってきた。

「おうっ、由比君、大谷課長だ」

「あっ、どうも由比です」

「あっ、渡辺です」

 それぞれに名刺の交換を済ませると、立ったままの大谷課長に会長は言った。

「大谷、今度シェクターやるからな。頼むぞ」

 実は大谷課長、根っからのビジネスマンで、まあ「モリダイラ楽器」の課長とは言うもののモリダイラ楽器そのものが楽器の総合商社で、シェクターなどという専門的なエレクトリック・ギターにはとんと疎かったようなのだ。

「大谷、あとで営業の連中と由比君たちと上手く打合せしてくれや」

「あっ、はい。分かりました」

 会長、ワンマン会長そのものと言った感じの人で聞いた話では終戦時丁度二十歳くらいで、今では楽器卸の老舗「山野楽器」の営業で相当に鳴らしたらしい。見たからにいかついタイプのこわもて風の紳士然としたタイプ。昭和六〇年代その当時で、五〇代の半ばだっただろうか。

「由比君、うちの連中、頼むな」

 そんなモリダイラ会長の言葉を背中に会長室をあとにした。

「ジョー、大丈夫かよ」

「なにが・・・・・」

 と、ジョーはいつもの調子で言った。

「ユー、原山さんのところすぐに行ってくれない、ネックとボディの注文」

 案の定である取りあえず在庫は四百万円分くらいしかない。ピックアップもトムのところから届くはずのものがまだ着てない。ブリッジプレートも、サドルも未加工のままである。ほとんど楽器フェア出展分、その四百万円分の製品に使ってしまっている。

 結局、金物の加工は堀口機械に発注、トレモロブロックは急追亀田金属に発注。ピックアップがどうしても間に合わない。

「俺、トムのところに取りに行ってくる」

「おいおい、取りに行くたってLAだぜ間に合うのかよ」

 ジョーはなんとしても1千万円分の物用意するつもりのようだ。

「ユー、心配するなって。ピックアップはUPSで送るから一週間。それにLAにあるパーツで二〇本くらい、トオルに組み立てさせるから手荷物で持ってくるよ、メイドインUSAをな」

 ジョーはジョーで「ドライ」。

「ナベ、卸を『モリダイラ』に全部任せようと思うんだ」

 モリダイラ楽器は楽器卸では中堅、当時、ブギの総代理店、それとなんといっても自社ブランド「モーリス」を全国展開していて、営業網は確かだった。
  東京、名古屋、大阪、福岡に営業所があり、初期契約では1千万ほどの仕入れを起こしてもらった。しかし、シェクターなどというこだわりの楽器を扱うには面倒だったようである。

 結局は、営業の田村さん、山口さんに頑張っては貰ったものの半年と続かなかった。そこがシェクターの難しい所、資金力、営業力だけではどうにもならない。
 日本でシェクターを再開した時は
北海道は、「東海楽器」、中部は「水野楽器」と卸専門商社にお願いしたものの上手くは運ばなかった。

 昭和62年。恵比寿の工房から、渋谷東に場所を移して…

「ジョー、俺達で営業した方がいいんじゃあないの」

「大変だぜナベ、なんてったって資金が」 ジョーも焦っていた。

 その頃、アメリカでは「シェクター」の商標をめぐって人悶着起きていたようだ。
 ノースハリウッドに事務所を構えシェクターは俺のブランドだと言い張っていた当時のシェクターUSA社長「シェルドン・ホーリック」。

いや、シェクターの営業権は俺達が買ったと言って、ダラスでシェクターを製造していた「クラーク」。所謂、ジョーが日本でシェクターの販売会社を起こした時のスポンサー「シーアンドジェイ」だ。

その頃は松本のアトランシアと言う工場でボディとネックを作り、塗装は同じく三泰工場と言う塗装専門工場で仕上げパーツとしてダラスまで荷物を送っていた。

日本でのシェクター復活は・・・・・

 そろそろ限界だったようだ。日本のプレイヤーなんかにもダレス製のトレムロックがマウントされた「シェクター」が、アンディーテーラーモデルとかで露出するようになってきた。もちろん部材を仕込んでいるのは僕等なのだが。当然、ピックアップは、オリジナルでもなければ、モンスタートーンでもない。

 それが、86年の「NAMM」に出てしまった。

 日本のマーケットは要するに「シェクターらしさ」がなければ売れない。と云うより、僕等もそうして営業をしてきた。ダラス製のシェクターはどう見てもシェクターであってシェクターではない。

 終いには、どう云うわけか「ジミーヘンドリンクスモデル」まで出てしまう。


  

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